2026.02.04
この世界線は、本当に不幸なのか
──「書けない社会」と幸福の別のかたち
はじめに
本シリーズでは、
戦前の表記規則が戦後も継続していたという仮想条件のもと、
- 記述能力が専門技能化した日本語
- 読めるが書けないという言語構造
- 教育・SNS・文学・翻訳・AI・学術制度への影響
を一貫して考察してきた。
では最後に、
どうしても避けられない問いに向き合う必要がある。
この世界線の日本は、
本当に「不幸な社会」なのだろうか。
1. 直感的な答えは「不幸そう」である
この社会を一望すると、
多くの人はこう感じるかもしれない。
- 書ける人が少ない
- 発信の自由が制限されているように見える
- 表現が難しすぎる
現代の価値観で見れば、
「誰もが書けない社会」
=
「抑圧された社会」
という印象を受けやすい。
しかし、この直感は
現代的な幸福観に強く依存している。
2. 幸福は「できることの量」だけで決まらない
現代社会では、
- 誰でも発信できる
- 誰でも表現できる
ことが、
幸福や自由と強く結びつけられている。
しかしこの世界線では、
幸福の基準が異なる。
この社会では、
- 読める
- 理解できる
- 判断に参加できる
ことが、
十分に保障されている。
重要なのは、
表現できるか
ではなく
理解できるか
である。
3. 「書けない」は劣等ではない
この社会では、
- 書けない
ことは - 能力不足
を意味しない。
それは単に、
自分は「設計者」ではなく
「読解者」である
という役割認識を示す。
役割が分かれていることは、
必ずしも不幸ではない。
むしろ、
- 自分が何に責任を負うか
- 何に責任を負わなくてよいか
が明確になることで、
精神的な安定が生まれる。
4. 不満は「比較」から生まれる
では、この社会に不満は存在しないのか。
答えはNOである。
不満は確実に存在する。
ただしその多くは、
自分ができないこと
ではなく
他者と比較したときの差
から生まれる。
これはどの社会でも同じであり、
この世界線に固有の不幸ではない。
5. 表現の制限は、暴力の抑制でもある
この社会では、
- 表記誤用が問題視され
- 言葉の設計責任が重く
なる。
一見するとこれは
息苦しい統制に見える。
しかし同時に、
- 感情の暴走
- 権威の誤装
- 言語による暴力
が、
構造的に抑制される。
言葉が重い社会は、
言葉による傷も少ない。
これは、
見落とされがちな利点である。
6. 幸福の重心は「内側」に移動する
この社会では、
- 発信
- 承認
- 可視的評価
が、
幸福の中心になりにくい。
代わりに、
- 読み取れること
- 理解できること
- 深く考えられること
が、
幸福の重心になる。
これは、
外に向かって証明する幸福
から
内側で成立する幸福
へのシフトである。
7. 現代社会との決定的な違い
現代社会では、
- 表現できるかどうか
が - 存在の証明
になりやすい。
この世界線では、
理解できること
判断できること
が、
存在の証明になる。
どちらが優れているかではない。
価値軸が違うだけである。
8. この世界線は「不幸」ではない
ここまでの考察を踏まえると、
この問いへの答えは明確になる。
この世界線は、
不幸ではない。
ただし、
- 軽やかではない
- 分かりやすくもない
- 即時的な快楽は少ない
その代わりに、
- 思考の密度が高く
- 責任の所在が明確で
- 言葉が信頼されている
社会である。
おわりに
この思考実験は、
「どちらの世界が正しいか」を決めるためのものではない。
それは、
私たちは今、
どの価値を選び、
どの価値を手放しているのか
を可視化するための試みである。
現代の日本語は、
「書きやすさ」を選んだ。
この世界線の日本語は、
「書く責任」を選んだ。
どちらも、
人間が作った言語であり、
人間が生きるための道具である。
そしてその選択は、
今この瞬間も、
少しずつ更新され続けている。

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