──メンタルが強いと言われた人間の内側
※この記事は
うつ病や適応障害の是非を論じるものではありません。
「私自身が、こういう比較軸で生きてきた」
という思考構造の記録です。
共感しなくていいし、
正しいとも思っていません。
本文を読んだ上での意見だけ歓迎します。
はじめに
うつ病や適応障害は甘えだと思っていた。
今も正直、完全には考えを変えていない。
気力がなくても仕事には行けた。
無気力でも生活は回せた。
楽しいと感じなくなっても、「やるべきこと」はやった。
だから「動けない」という状態を、長い間理解できなかった。
生活する以上、働くのは当たり前。
次の仕事が決まらない限り、辞めるという選択肢はなかった。
※これは価値判断の話ではない。
私の思考構造の話だ。
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逃げられた人は賢かったのか
指定難病になってから、どうしても浮かぶ疑問がある。
適応障害やうつ病で止まれた人たちは、
本当に取り返しがつかなくなる前に逃げられた、賢い人たちだったのではないかと。
一方で私は、
心が壊れても行き、
無気力でも行き、
体に異変が出ても行った。
小学校でも、中学校でも、高校でも、大学でも、
アルバイトでも、仕事でも、
「自分はうつ病なのではないか」と思う瞬間は何度もあった。
正直、病院に行って正確に診断すれば、
うつ病と出る可能性は高いと思う。
ただ、病院に行かなければ診断はつかない。
診断テストで「健康そうな答え」を選べば、うつ病にはならない。
朝起きられない日、外に出たくない日なんて誰にでもある。
私自身、外に出たくて出た日はほとんどない。
それでも無理やり出て、
無理やりイベントを作って、
「まともな人間」を演じ続けてきた。
それをやり過ぎた結果、
最終的に体が先に限界を迎えた。
水疱性類天疱瘡。
治ることのない国の指定難病だ。
今は、
割れたガラスのコップをマスキングテープで止め、
水が漏れているのを確認しながら、
「ここまでは大丈夫かな?」と負荷をかけて使い続けている感覚に近い。
これは根性論の勝ち負けではない。
止まる設計がなかっただけだ。
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私は「メンタルが強い」のではない
私はよく、
「メンタルが強い」「HPが無限」と言われてきた。
だが、それは誤解だ。
耐久力が高いのではない。
比較基準が異常に高いだけだ。
RPGで言えば、
防御も回復もないのに、HPだけ異常に高いボス。
ポケモンで言えば、ラッキー。
攻撃は通る。
ダメージも受けている。
ただ、倒れる判定が異様に遠い。
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キャパシティ(耐久)の違いが見える風刺画

この手の風刺画を見ると、私は右側の人に強烈に共感する。
• 刺さっている矢が多い
• 周囲からは「耐えてる」「強い」と見える
• 本人はただ、倒れる基準が異常に高いだけ
ここで勘違いされがちなのは、
「右側の人は偉い」「左側の人は弱い」という話ではない。
初期設定(キャパシティ)が違うだけだ。
そして右側の人間は往々にして、
止まれない。
助けを求められない。
だから突然壊れる。
そして壊れた時には、もう取り返しがつかない。
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死を最大値に固定した思考
私の耐久の根幹には、これがある。
死ぬときの苦痛と恐怖を、想像できる最大値として固定すること。
小学生の頃、
死のうと思って高い建物の縁に立ったことがある。
落ちることへの恐怖、
痛みへの恐怖、
そして「無」への恐怖。
一歩が出なかった。
死が怖いからではない。
想像できる痛みと恐怖が、あまりにも大きかったからだ。
それ以来、私はこう考えるようになった。
• 死ぬときの苦痛が最大
• それより軽い苦痛はすべて「下」
• だから耐える
• あの一歩を踏み出すのと、今はどちらがマシか
そして私は、
他の人よりも死を強く恐れる
タナトフォビアの人間だと思うようになった。
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タナトフォビアの正体(かなり特殊)
私のタナトフォビアは、一般的なものと少し違う。
• 死ぬ過程の痛みが怖い
• 死んだ先に何もないことが怖い
死を美化したことは一度もない。
楽になるとも思っていない。
だから、
死と比較すれば、
大抵のことは「まだマシ」になる。
私は辛くなるたびに、
あの一歩の恐怖を正確に思い出すため、
あえて高い場所に立つことがある。
落下死の痛みを極端に大きく見積もっているせいか、
私は完全な高所恐怖症になった。
高い場所に立つと、
「この建物が倒壊したら?」
「今、落ちたら?」
と考え、心拍数が一気に上がる。
バンジージャンプにも行ったことがある。
紐があり、死なないと分かっていても、
一歩がなかなか踏み出せなかった。
落下中の景色は、
やはり恐怖に値するものだった。
だから、
あの後に地面に叩きつけられる痛みを想像すれば、
大抵のことは耐えられてしまう。
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それゆえに「自殺できる人は強い」と思っていた
私は昔から、
自殺する人を弱いと思ったことがない。
むしろ、
あの恐怖を超えられるほど強い人、
あるいは、
あの恐怖を上回る苦痛を抱えていた人。
そう解釈してきた。
私には、あの恐怖を超えられなかった。
だから生きている。
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「まだマシ」で生き続けた理由(ゼロとの比較)
私の人生判断は、基本的にゼロとの比較だ。
死を「何もないゼロ」と仮定したとき、
生きている限り、どんなに小さくてもプラスが残る。
少しでも美味しいと感じられるなら、
味覚が完全にゼロになるよりマシ。
正直、食事にはほとんど興味がない。
高校時代、3日食べなくても死なないから問題ないと思っていた。
不味くても、栄養が取れればいい。
それでも、
味覚という受容体が生きている以上、死後のゼロより上だ。
友達と遊び、
一瞬でも笑えたなら、
その時点で天秤は死後のゼロより上に傾く。
耳が聞こえるだけでマシ。
目が見えるだけでマシ。
今日を認識できるだけでマシ。
だから私は、「まだマシ」で生きてきた。
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未来の期待値という計算
健康だった頃、私はこう考えていた。
• 結婚するかもしれない
• 子どもが生まれるかもしれない
• 何かが起きて好転するかもしれない
その期待値が限りなくゼロに近くても、
死という完全なゼロよりは上だ。
病気もしていなかった。
正社員で働き、給料をもらい、休みもあった。
私の中では、
• 平均レベルで幸せになる期待値=100
• 死=0
この天秤で、生を選び続けていた。
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指定難病で天秤が変わった
指定難病になってから、この天秤は変わった。
今の私は、
未来への期待値が 0.0001 になっている。
結婚はできない。
子どもも持てない。
多分、独身で一人死んでいく。
比較は、
0.0001 と 0。
理屈上はまだ生きる方が上だが、
差はほとんどない。
私はこれを
**「未来への希望が消えた」**と感じている。
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結論
これは正解でも、勧めたい生き方でもない。
ただ、
「メンタルが強い」「HPが無限」と言われ続けた人間の
内側にあった設計図を、そのまま書いただけだ。
HPが高く見える人間ほど、
壊れるときは静かで、深い。
これが、
私が折れず、止まれず、
そして壊れるまで走った理由だ。
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補足
この記事は誰かを否定するためのものではない。
ただ、耐えられてしまった人間の内側を
記録しただけだ。
このFAQは、
誰かを説得するためのものでも、
正しさを押し付けるためのものでもない。
あくまで、
この記事を読んで「引っかかりやすいポイント」を
先回りして言語化しただけだ。
共感しなくていいし、
納得しなくてもいい。
ただ、これは私の思考構造としては一貫している。
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終章A:よく来る反論への先回り(FAQ)
Q1.「それって結局、死にたいってことでは?」
いいえ。
私は死を望んでいないし、死を楽になることだとも思っていない。
むしろ、死ぬ過程の苦痛と、**死後の“無”**を異常に恐れている。
だから、比較の結果として生を選び続けているだけだ。
もし「死ぬことの方がマシ」だと本気で判断できる状況なら、
そちらを選ぶ自信がある、というだけの話だ。
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Q2.「希望を捨てているだけでは?」
捨てていない。
期待値が限りなく小さくなっただけだ。
私は希望を「感情」で持つのではなく、
「数値」として評価している。
感情が先に来るタイプではない。
自分に対する考えや物事の判断において、
感情よりも先に論理が来てしまうだけだ。
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Q3.「それは冷酷・非人間的では?」
感情がないわけではない。
ただ、感情を判断基準にすると壊れるタイプなだけだ。
私にとっては、
合理性のほうが感情よりも安全だった。
その結果、合理性が常に先に来るようになった。
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Q4.「病気になって悲観的になっているだけでは?」
それも一部は事実だと思う。
ただし、
この思考構造自体は病気より前から存在していた。
病気は、死に対する天秤の数値を変えただけで、
基本的な考え方そのものは変わっていない。
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Q5.「人に頼れば違ったのでは?」
その通りだと思う。
ただし、私は人に頼れない性格だった。
これは意地やプライドの問題ではない。
頼るという選択肢が、設計上ほぼ存在していなかった。
正しさと、できるかどうかは別だ。
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Q6.「それでも生きる意味はある?」
意味は分からない。
正直、分かろうともしていない。
ただ、
ゼロより上である限り、比較上は生きる。
それが、今の私の答えだ。

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うつ病や適応障害の是非を論じるものではありません。
「私自身が、こういう比較軸で生きてきた」
という思考構造の記録です。
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