SNSやコメント欄で議論していると、
話が噛み合わないまま終わることがある。
感情的になっているわけでも、
どちらかが的外れなことを言っているわけでもないのに、
なぜか平行線になる。
最近、その原因がはっきり分かるやり取りがあった。
戦前の文章と、現代の運用の話
きっかけは、
「日本語はカタカナ、外来語はひらがなで書く」
という、戦前に実際に存在した表記規則の話だった。
相手は、
戦前の実際の文章を引用して
「当時はこう書かれていた」という
史料としての正確さを提示していた。
一方で自分は、
それをそのまま再現したいわけではなく、
もしこのルールを
現代に持ってきて運用するとしたら
どうした方が分かりやすいだろう?
という、再設計の話をしていた。
ここで、
議論の前提がズレていた。
ズレていたのは「正しさ」じゃなく「視点」
重要なのは、
どちらが正しいか、ではない。
- 相手は
**「当時どうだったか」**を語っている - 自分は
**「今使うならどうなるか」**を考えている
どちらも成立するし、
どちらも間違っていない。
ただ、
時間軸が違っていた。
これに気づかないまま話を続けると、
- 「いや、今はそうじゃなくて」
- 「いや、当時はこうだった」
という、
誰も悪くないのに噛み合わない会話になる。
前提を言語化すると、議論は整理される
そこで、自分はこう整理した。
それは戦前の実例としては確かにそうだと思う。
ただ、自分は
当時の文章を再現する話というより、
この規則を現代に持ってきた時に
どう使うのが分かりやすいかを考えていた。
だから認識にズレがあったんだと思う。
これを言葉にした瞬間、
議論は「対立」から「整理」に変わった。
「外来語はひらがな、日本語はカタカナ」だったら何が起きるか
ここで改めて思ったのが、
この規則そのものの面白さだった。
現代の感覚だと、
- 外来語 → カタカナ
- 日本語 → ひらがな・漢字
が当たり前になっている。
でももし逆に、
- 外来語はひらがな
- 日本語はカタカナ
という規則で言語運用していたら、
かなり違う景色が見える。
たとえば、
だいやもんどハ非常ニ硬ヒダケデナク、
トテモ高価ナ宝石デアル。
一見すると奇妙だが、
これは
「音」と「語の出自」を分けて可視化する
かなりコンセプチュアルな表記でもある。
この規則は、
読みやすさのためというより、
語がどこから来たのかを
一目で分からせる
ことに全振りしている。
実用性はともかく、
発想としてはかなり面白い。
現代で運用したら、漢字表記は増えるのか?
では、この規則を
本気で現代に持ち込んだらどうなるか。
結論から言うと、
漢字表記は増えるが、
漢字一択にはならない
可能性が高い。
漢字は、
- 分類
- 定義
- 意味の圧縮
にとても強い。
だから、
- 学術
- 法令
- 辞書
- 教科書
といった
構造化が必要な文脈では
漢字表記が増えていく。
ただしその一方で、
- 学習コスト
- 入力コスト
- 検索性
の問題がある。
結果として、
全部を漢字に置き換えることは起きない。
音声表記(ひらがな)は消えるのか?
消えない。
むしろ確実に残る。
ひらがなは、
- 感覚的
- 口語的
- 説明的
- 初学者向け
という役割をすでに担っている。
たとえば、
- だいやもんど
- えめらるど
- さふぁいあ
は、
意味を厳密に定義しなくても通じる。
ここを無理に漢字に統一すると、
どの漢字が正解なのか?
という、
別の混乱が生まれる。
結果として、
漢字表記と音声表記は併存する
という状態に落ち着く。
なぜ日本語は「混ざったまま」成立しているのか
そもそも日本語は、
- 和語
- 漢語
- 外来語
が最初から混在して成立している言語だ。
これは欠陥ではなく、
むしろ強み。
日本語では、
- 感情 → 和語
- 概念 → 漢語
- 技術・新規概念 → 外来語
というように、
役割分担が自然にできている。
同じ対象でも、
- こころ
- 心
- メンタル
を使い分けられる。
これは
「表記や語彙が多すぎる」のではなく、
思考のレイヤーを切り替えられる
ということでもある。
だから日本語は、
混ざったままでも壊れないし、
むしろその方が柔軟に機能する。
仮にルールを作るなら、こうなる
思考実験として、
実際に運用ルールを作るなら、
たぶんこうなる。
- 定義・分類・比較
→ 漢字表記 - 説明・感覚・会話
→ 音声表記(ひらがな) - 表現・文芸・広告
→ 意図的に混在
重要なのは、
正しい表記かどうか
ではなく
意図に合っているかどうか
になる。
表記は、
発音の写しではなく、
その語を
どのレイヤーで扱っているか
を示す記号になる。
おわりに
SNSの議論は、
勝ち負けを決める場じゃなくていい。
前提を一段言語化して、
「今、何の話をしているのか」を揃えるだけで、
会話はちゃんと前に進む。
今回のやり取りは、
そのことを改めて実感した出来事だった。
もし、この言語運用が戦後から続いた場合、
日本語は
「誰もが話せ、ほとんどの人が読めるが、
正確に書けるのは一部だけ」
という、
記述能力が専門技能化した
かなり特異な言語になると思う。

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