2026.02.04
この世界線の日本では、文章系SNSより動画系SNSが発展するのか
──「書けない社会」が選ぶ表現媒体
はじめに
前章では、
記述能力が専門技能化した言語社会において、
SNSは「書く場所」ではなく
読むことと設計を共有する公共空間として発展する可能性を論じた。
では次に浮かぶ問いは自然である。
この社会において、
Twitter(X)のような文章中心のSNSよりも、
YouTubeなどの動画中心のSNSの方が
主流になるのではないか?
本章では、
この問いに対して
結論・理由・社会的帰結の順で検討する。
1. 結論:動画系SNSは「より強く」発展する
結論から言えば、
この世界線の日本では、
文章系SNSよりも、
動画系SNSの方が
生活インフラとして強く発展する
可能性が高い。
ただしそれは、
- 文章が軽視されるから
ではなく - 書くことのコストが高すぎるから
である。
2. 「話す」ことは依然として大衆的である
この言語社会でも、
- 話す能力
は、ほぼすべての人が自然に身につける。
一方で、
- 書く能力
は、
レイヤー選択と設計を要求される専門技能である。
この非対称性の結果、
思考を外に出す最短経路は
「書く」ではなく「話す」
という状況が生まれる。
動画系SNSは、
この条件と完全に噛み合う。
3. 動画は「レイヤー判断を視聴者に委ねられる」
文章では、
- 表記
- 文体
- レイヤー
を書き手が事前に設計しなければならない。
しかし動画では、
- 声のトーン
- 間
- 表情
- 身振り
といった
非言語情報がレイヤーを補助する。
そのため、
書き手(話し手)が
レイヤーを完全に設計できなくても、
視聴者が補完できる
という余地が生まれる。
これは
「書く」ことが重い社会において、
極めて重要な利点である。
4. 動画は「誤用」のリスクが低い
この社会では、
文章における表記誤用は、
- 思考位置の誤表示
- 設計ミス
として重大な問題になる。
一方、動画では、
- 話し言葉
- その場の修正
- ニュアンスの回収
が可能である。
結果として動画は、
設計責任が分散された表現媒体
になる。
これは
炎上リスクの観点からも、
文章より扱いやすい。
5. 文章系SNSは「残るが、役割が変わる」
もちろん、
文章系SNSが消えるわけではない。
しかしその役割は、
- 日常的な発信
から - 言語設計の実演・記録
へと変わる。
文章系SNSは、
- 専門家
- 作家
- 言語設計者
による、
高度な文章の展示場
として機能する。
大衆的な場ではなく、
準アカデミックな空間に近づく。
6. 動画と文章の関係は対立ではない
重要なのは、
動画系SNSと文章系SNSは
競合ではなく補完関係にある点である。
- 動画
→ 思考の放出・共有 - 文章
→ 思考の固定・設計
多くの場合、
動画で語られ、
文章で整理される
という流れが定着する。
文章は「先に出すもの」ではなく、
後から整えるものになる。
7. この社会のインフルエンサー像
この世界線のインフルエンサーは、
- 文章がうまい人
ではなく - 話しながら考えられる人
である。
彼らは、
- 思考の途中を見せ
- 後から専門家が文章化する
という役割分担の中心に立つ。
つまり影響力は、
記述能力ではなく
思考の可視化能力
に宿る。
8. 結論
この世界線の日本では、
- 動画系SNSが
大衆的な発信の中心となり - 文章系SNSは
言語設計と記録の場になる
という、
明確な棲み分けが起きる。
それは、
書けないから動画を選ぶ
ではなく
書くことが重い社会だからこそ、
話すことが解放される
という結果である。

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