2026.02.04
この世界線の日本では、ブログ・学術論文・卒論はどうなるのか
──「書くこと」が制度化された社会の知的インフラ
はじめに
前章までで本シリーズは、
記述能力が専門技能化した言語社会において、
- 日常言語
- SNS
- 動画
- 文学
- 翻訳
- 教育
がどのように再編されるかを検討してきた。
では最後に、
知を固定し、継承し、評価する装置である
- ブログ
- 学術論文
- 卒業論文
は、この社会でどのような役割を持つのか。
本章では、
それぞれを独立したものとしてではなく、
同一の連続体の異なる層として考察する。
1. 前提:この社会で「書く」とは制度行為である
この世界線では、
「書く」という行為は、
- 個人的表現
ではなく - 社会的に位置づけられた行為
である。
なぜなら、
- 書くことは難しい
- 誤用は思考の誤表示になる
- 公的影響が大きい
からである。
結果として、
文章は常に
どの制度に属する文章か
という文脈とともに読まれる。
2. ブログは「最下層」ではなく「入口」になる
現代では、
ブログはしばしば
- 私的
- 軽量
- 非専門的
と見なされがちである。
しかしこの社会では逆である。
2.1 ブログの位置づけ
ブログは、
- 書き手が
自らのレイヤー設計能力を
公開実験する場
になる。
つまりブログは、
制度に属さないが、
制度へ接続可能な文章
である。
2.2 ブログが果たす役割
- 思考の途中を提示する
- 表記選択の理由を露出させる
- 読者の読解反応を観測する
このためブログは、
書き手候補の選抜装置
として機能する。
3. 学術論文は「最も純度の高い文章」になる
学術論文は、
この社会において
最も厳格な言語領域になる。
3.1 学術論文に求められるもの
- レイヤーの完全な一貫性
- 表記の恣意性の排除
- 読み手の誤配置を起こさない設計
つまり論文とは、
誤読が起きないように
設計された文章
である。
3.2 書ける人間は極端に少ない
この条件を満たせる人間は限られる。
結果として学術論文は、
- 誰もが読める
- しかし書けるのはごく一部
という、
極端に非対称な知の形式になる。
4. 卒業論文は「通過儀礼」ではなく「適性試験」になる
現代では卒論は、
- 学位取得の要件
- 形式的儀礼
として扱われることも多い。
しかしこの社会では、
卒論の意味は根本的に異なる。
4.1 卒論が問うもの
卒論が問うのは、
- 知識量
ではなく - 言語設計能力
である。
具体的には、
- 自分がどのレイヤーで書いているか
- それを最後まで維持できるか
が評価対象になる。
4.2 卒論は「向いていない」ことを示す
重要なのは、
卒論に落ちることが
- 失敗
ではなく - 適性判断
になる点である。
この社会では、
卒論を書けない
=
研究者に向いていない
という認識が、
価値判断抜きで共有される。
5. 三者の関係は「階段構造」になる
この世界線では、
- ブログ
- 卒論
- 学術論文
は、次のような関係を持つ。
- ブログ
→ 言語設計の実験場 - 卒論
→ 設計能力の検査 - 学術論文
→ 設計能力の実運用
つまりこれは、
文章の格ではなく、
要求される設計精度の違い
である。
6. 知の流通はどう変わるか
この構造では、
- 思考は
ブログで芽生え - 精査され
卒論・論文で固定され - 再び
ブログや動画で解説される
という循環が生まれる。
結果として、
知は閉じないが、
書き手は増えない
という状態が維持される。
7. この社会は不自由か?
一見すると、
- 書ける人が少ない
社会は
不自由に見える。
しかし実際には、
- 読める人が多く
- 解釈に参加でき
- 設計責任が明確
という点で、
言語的には極めて安定した社会でもある。
結論
この世界線の日本では、
- ブログは
思考の公開実験場となり - 卒業論文は
言語設計の適性試験となり - 学術論文は
設計精度の極限として存在する
それらは分断されず、
一つの知的インフラとして連続している。
この構造は、
「誰もが書ける社会」ではない。
しかしそれは、
誰もが読め、
ごく一部が責任を持って書く社会
でもある。

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