――私が道徳と教師という人種を嫌いな理由
私は道徳が嫌いだ。
そして正確に言えば、道徳そのものよりも、道徳を教える教師という人種が嫌いだ。
子どもの頃の私は、
「大人は偉い」
「先生は人格的にも優れている存在」
そういう前提を、疑いもせずに受け入れていた。
先生とは「教え導く人」だから先生なのだと思っていた。
少なくとも、人として、徳の面では、自分より上にいる存在なのだろうと。
だから道徳の授業も、
「正しいことを学ぶ時間」
として受け取ろうとしていた。
だが、その前提は簡単に壊れた。
意見を言えば、
「その考え方はおかしい」
と感情的に否定される。
議論はなく、理由もない。
あるのは、声の大きさと立場だけ。
異なる考えを示した子どもは、
“考えが足りない存在”として扱われ、
大人の権威で矯正される。
その瞬間、はっきりと理解した。
――この人たちは、道徳を教えているのではない。
――自分の価値観に従わせているだけだ。
もし教師が、
「一つの考え方を提示し、考えさせる立場」
に徹しているのなら、まだ話は分かる。
教師も万能ではなく、
間違うし、偏るし、未熟でもある。
そうした前提の上での授業なら、成立していたのかもしれない。
だが現実は違った。
教師は、自分の価値観を「正解」として提示し、
それに従わない子どもを
感情と立場でねじ伏せる。
道徳を教える立場でありながら、
異なる考え方を許容しない。
対話もしない。
ただ従わせる。
それでいて、自分たちは
「善を教えている側」
だと思っている。
冗談ではない。
さらに歪んでいるのは、
そうした人間が、生徒の「道徳」に成績をつけるという事実だ。
何を評価しているのか。
思考の深さか。
倫理観か。
違う。
評価されているのは、
どれだけ教師の価値観に従順だったかだけだ。
実際、私は道徳の成績がいつも低かった。
だがそれは、
考えなかったからではない。
むしろ逆だ。
一つの正解に疑問を持ち、
別の可能性を考え、
「それは本当に正しいのか?」と立ち止まった。
その姿勢が、
この教科では評価されなかっただけだ。
ここで、よくある逃げ道も一応認めておく。
もしかしたら私は、
たまたままともな教師に出会えなかっただけなのかもしれない。
世の中には、誠実で、謙虚で、
本当に教育に向き合っている教師も存在するだろう。
ただ、少なくとも私の人生では、
親戚も含めて
「この人は信用できる」と思えた教師は一人しかいなかった。
だから私は、教師という人種が嫌いだ。
教師という仕事は、
常に「自分より下の立場」とされる子どもを相手にする。
反論されにくく、立場は揺らがない。
その環境に長くいれば、
自覚がなくても驕り高ぶる。
それは、もはや個人の問題ではなく構造の問題だ。
そしてそれこそが、
「社会に出ていない」ということなのだと思う。
対等な立場で評価され、
理不尽に否定され、
自分の正しさが簡単に覆される経験をしていない。
だから世界を、
「正しいか」「間違っているか」
という単純な二択でしか捉えられない。
だが現実には、
正義の反対側には、別の正義がある。
善悪で割り切れる話の方が、圧倒的に少ない。
本当に他人を陥れようとする悪意ある人間もいる。
ただし、
「どちらも悪」というケースは、実はほとんどない。
多くは、
立場と視点が違うだけだ。
それにもかかわらず、
世界の複雑さを引き受けることもなく、
綺麗事だけを知ったまま、
子どもに善悪を教え、
それを成績として数値化する。
――それは教育ではない。
権威が、思想を採点しているだけだ。

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